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【大家族】男5人女1人の子供を子育て中の村上豪のLIFESTORY

初めまして自分の生い立ちを書きます。興味ある方は長くなりますがお読みください。長くなるので少しづつ書いていけたらなと思っています。(前半の写真はほとんどフリー素材を使ってますがその理由も文中に書いていきたいと思います)

Contents

誕生~学生時代のSTORY

FAST STORY 誕生から幼児期

1979年11月12日に岩手県一関市に4人兄弟の次男?として産まれました。その前に私には兄がいたそうです。私が産まれる少し前に事故で亡くなったそうです。お腹の中んいる時にストレスを感じていたのかは知りませんが幼児期は家の中にいるより外遊びが好きで一番ないが好きだったかというと冒険ごっこの中でも隠れ家を見つけるのが好きでした。当時生きていた祖母が必死で探しているのを隠れ家からよく見ているのを思い出せます。ですが兄が亡くなった事もありすぐに家を飛び出し目を離すと居なくなる私はきっと育てるのが大変だったと思います。なので最初は幼稚園に入れる年から幼稚園に入れる予定だったみたいだけど早めに保育園に入れられたみたいです。今思うと旅行やドライブが好きなのはこの時からだったのかもしれません。

保育園児の私は体は小さく細身で給食も全部食べられず給食時間の後の遊びなど時間も1人教室で給食を見ながら泣いていました。量が多いし当時脱脂粉乳という飲み物がありそれが飲めずに居残りさせられていたんです。家族の食事中もみんなにもっと食べろと言われ続けたのを覚えています。ですが小食で小さくて細身でしたが外で遊ぶのが大好きでいつも外で何かをしている幼児期だったと思います。

SECOND STORY 学生時代

小学校編

小学生のわたしはというと漫画やアニメが好きで「ドラゴンボール」や「北斗の拳」・「キャプテン翼」などよく真似していました。低学年の頃は通学路が約3キロメートルあり朝早めに家を出て走って学校に行きサッカーをしていました。そのころには給食も普通に食べれるようになり昼休みももちろんサッカーです。学校帰りはかめはめ波を放ちたくて気を出す練習をしていました。(本気でかめはめ波を放てるって思ってたんです笑)

勉強は九九がなかなか覚えられずに居残りさせられてました。小学校に入って最初の難関かもしれませんね。

私が通っていた小学校は3年生から何か一つの部活に入らなくてはダメで、選べる部活が男子は[野球]か[マーチングバンド]しかなく野球はある出来事があり入りたくはなかったので、マーチングバンドに入りバスドラムという簡単に言うと大太鼓を担当しました。

ある出来事とは幼少期から「食べろもっと食べろ」言われ続けて少しずつ食べる量が増え3年生の頃には上にも横にも大きくなっていました。1年生の頃は背の順で並ぶと1番前でしたがこの頃になると後ろの方でした。動けるデブだと自負していましたが太っていると運動が普通の人より大変なんです。太ったもう一つの原因が【ミニ四駆】【ファミコン】マリオやドラクエなどにハマり外で遊ぶよりゲームしている時間が増えていたんですね。

高学年になりゲームをする時間は相変わらずでしたがその頃[森口博子の夢がMORIMORI]という番組がありその中の企画でSMAPがレギュラーの【キックベース】が流行って休み時間はキックベースをやっていたからか少しづつですが瘦せていきました。

勉強にはあまり触れていませんがご想像にお任せします。笑

中学生編

中学生になり部活は何に入ったと思いますか?小学校のマーチングもそうですが中学校の部活は○○でしたっていうと「イメージと違って意外です」って言われます。笑 (若い頃は強面ではなく爽やか少年だったんですよ自画自賛ですが)

田舎の中学校なので人数が少なく男子が選べれる部活が[野球]か[柔道]か[テニス]のみ。野球は小学校でもやっていなかったので入っても小学校からやっている人たちばかりなので眼中にはなく柔道かテニスという選択肢で柔道はその中学校の必須科目で毎週1時間の授業があるから悩みましたがテニスに入部しました(唯一女の子と一緒の部活というのが最後の一押しでした)
中学になると出てくるのがニキビと思春期そしてその頃マイブームだったのが「尾崎豊」という歌手で15の夜とかよく聞いてました。またハマっていた漫画が「特攻の拓」や「カメレオン」これらをわかっている人は「あーそっちにいちゃったのね」と思うかもしれませんね。学校には毎日通っていましたが真面目に学生生活をしていたかというと...寝てました。

sidestory 中学期に続けていたものVol.1

長男を亡くしたことにより子供に対する神経質なくらいの思いに反発し 夜遊びしたり週末になると泊まり歩いたりしていて 好きな歌が尾崎の「15の夜」歌詞はというと♪盗んだバイクで走り出す♪(盗んだりはしませんでしたが) 家にあるバイクを乗ったりしていたこともあり、小学生の頃さんざん親にやりたいと言っていた【モトクロス】というバイクのレースをすすめられ正直言ってやりたかったのは小学生の頃で家にもバイクもあるし今さら⁉とも思いましたが元々バイクが好きなこともあり始めました。

【モトクロス】はオフロードレースの1つで舗装されていない土や石の道路にジャンプがあたりするコースを競争するんです。ジャンプするところなど迫力があるのでまだ見たことのない人は見ても損はないと思います。モトクロスは中学1年の夏位から中学3年の初夏あたりまで続けたんですけど中学校3年の時にレース中の事故で入院。全く勉強していなく受験も控えているということでそのまま引退しました。

sidestory 中学期に続けていたものVol2

 

もう一つ中学時代に続けていたものがあります。それは新聞配達です。朝早く起きてもしくは寝ないで雨の日も風の日も雪の日も自転車に新聞積んで配達していたこともあり中学生にしては裕福な生活をしていたんじゃないかとおもいます。新聞配達は高校の2年までやりました。雨風や雪なども多変でしたが、元旦の新聞配達は本当に大変でした。お金を稼ぐ大変さを知ってほしくて私の子供達にもやってほしかったんですがその新聞屋さんも店を辞めちゃって出来なかったのが残念です(子供たちはやらされなくてホッとしている事でしょう笑)

高校生編

学生時代の疑問地元の高校に入りましたが、実を言うと多分みんなが思うことは思いますが【高校の勉強って必要?】って考えたことありませんか?私はそれを拗らせそのまま自主退学してしまったので高校の学校生活ってあまり記憶にないんです。

あるのは友達と遊んだりゲームして遊んだり彼女と遊んだりそして朝になったら新聞配達そしてまた遊ぶの繰り返しだったような気がします。実家の建築会社を継ぐつもりだったのもあり職人に学力?高卒って学歴なくても良いよね?って思ていたのも高校を辞める気持ちをつよくしたのかもしれません。

就職~波乱万丈の10代後半から20代

THIRD STORY  Vol.1 社会人になり結婚~パパになりました

17才の夏バイクに乗せられるだけの荷物を載せて

17才の夏にバイクに乗れるだけの荷物を載せて仙台の従業員10人くらいの小さな建設会社に就職しました。就職してから月末締めの翌々月の25日支払い。つまり働き始めて2か月後に初給料を貰えるということ。新聞配達で少しばかり貯金してましたが、ほぼ荷物を持ってこなっかたので必要なものを買いそろえるとほぼ無くなり給料日までまるで修行僧みたいな生活。そしてやっと給料を貰えても高校中退で給料も安い。その時実家暮らしではわからなかった家賃と光熱費の負担。学生時代の甘い考えが身に沁みましたね。

小さな会社だったので最初から色々な事をしなければなりませんでした。まず一番若いということで力仕事は最初にまかせられる。そこから技術面を教えられて型枠工事・舗装工事・左官工事・下水道工事・道路工事・測量etc…などをやりました。この経験が今のアズホームの仕事にも役立っています。

妊娠~帰郷そして結婚

はじめての子供20才の頃までのやく2年半その建設会社にお世話になり当時付き合っていた彼女のお腹に子供が宿り実家から30分ほどの地元に帰郷し結婚しました。当時の言い方だと「できちゃった婚」でした。21才で家庭をもちそして長い子育て人生のスタートです。地元には帰りましたが実家には入らず貸家を探しました。いい物件が見つからずアパート暮らしも覚悟していましたがちょうど実家で経営している貸家が空いていると聞いて少し古いけどその物件に決めて住み始めました。やはり建築会社が運営しているだけあって古いながらもメンテナンスもいきとどいていてしっかりとした貸家でした。まぁ何と言っても自分の実家の物件なんで少しだけコマーシャルでした笑(何年か住んで子供も2人になり貸家も老朽化してきたのでリノベーションして新しくなりました)

ついに建築業界へ

帰郷してからは実家の会社の株式会社村上建築工業に就職。(やっと社名が出てきましたね)大工仕事を習いながら前職を活かしてエクステリア工事・水道工事・下水工事など社内工事を進めて外注工事を減らすことでお客様が家を建てたりリフォームする時のコストの削減に貢献できたのではないかと思います。

初めての挫折

弟も入社して兄弟で会社を盛り上げていこうと決め職人さん達にも認められていき25才の頃頃でした。仕事も覚えてきて会社を今までの体制から時代に合った体制に変えていこうと社長が自分の親という言いやすい環境もあり現状を職人気質な社長と仕事の意見が食い違うことが増えてきました。このままは社内の雰囲気も悪くなるので離れることにしました。そんな感じで建築人生の初めての挫折でした。そして人生2回目の若気の至りだったかもしれませんね。

 

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THIRD STORY Vol.2 新たな出発~出会いそして別れ

いったん建築からも離れて違う職種についてスキルを得ようと〔墓石屋〕に就職。人骨には抵抗がなかったけど、ミイラ化した仏様を扱ったりもするのもあり、そして先輩に忙しい盆前の工期が終わるとほとんどの人が毎年首を切られてると聞き早めに離職。

次に選んだのが車や旅行が好きなので長距離トラック運転手でした。「運んだ距離や量で給料が決まるから頑張れば頑張るほど給料が高くなる」「ただ大きな会社は決まりとかで無理が出来ないから給料は安定するけど思ったより安くなる」と知り合いから聞いていたので、子供たちに裕福な思いをさせたいと迷わず従業員が3人という小さな運送会社に入社。元々体力はあるし運転好きなので本当に寝る間も惜しんで仕事した結果…..とても家族4人暮らせる金額ではありませんでした泣 選んだ会社が小さすぎた事と後から知ったのですが社長が女好きで従業員の給料減らしてその金が愛人に流れてたみたいです。ここも早めに退職

そして次に選んだのが懲りずにまたトラック運転手笑 今度は運送会社ではなくスクラップ会社の専属トラック運転手です。この頃中国の景気が上がり始め金属の値段が上がり始めたので伸びる可能性も感じていたのでちょうど募集していたトラック運転手を選びました。そしてこの読みが当たって中国オリンピックで建設ラッシュで金属がさらに高騰して給料もボーナスも上がっていきました。

長男入学からのまさかのイジメ?

トラック運転手という職業柄、定時出勤定時退社とはいかず早いときだと深夜出発や帰りが遅くなったり帰れない日もあるんです。なのでめったにはないですが日によっては帰っても家族と会えない日が続くこともあり、私が子供の頃は父親と遊んだことはあまりなく友達をの家族を見て羨ましいというか寂しい思いをしていました。なので家族時間というか子供達との時間をとても大切にしていました。明るいうちに帰れたら暗くなるまで公園で遊んだり、休みの日も子供達と一日中遊んでいました。そして長男の入学と3人目の誕生とめでたいことが続き幸せな家庭が続くもの後思っていましたが長男が小学校に入学して少ししてから日に日に元気がなくなり、笑顔がなくなり、ボーっとしていることが多くなり、イジメられているんじゃないかと心配する日が続きました。しかし嫁が3人目を出産したことも原因なのかなと思っていました。なぜかこの頃から会社でも村上の車あそこにいた?とか少し首をかしげる質問が増えていきました。

嫁の浮気~シングルパパになる

早めに帰れた時に長男と次男が2人だけで家にいる事が増え始め 少したってから買い物してたとかお母さん達と食事会してたと帰ってきて不審に思っていました。そしてその不審が確信に変わる出来事がありました。

嫁が交通事故を起こし浮気が発覚。そう会社の人が変な質問してたのは浮気に気づいてて遠回しに教えようとしてくれてたんです。そして長男の笑顔が消えたのも浮気をばらさないように嫁がきつく言い続け、長男の正義感と嫁の言いつけ狭間で悩み苦しみ笑顔が消えてしまったのでした。浮気がばれた後、長男が泣きながら「今まで黙っていてごめんなさい。言いたかったけどママが怒るし、パパが知ったらパパと暮らせなくなるって言われていたから言えなくて辛かった」と言われ浮気よりもそんな思いをさせたことがとても辛かった。子供たちが望むならと嫁に浮気相手ともう会わない浮気をもうしないという条件で生活を続け始めましたが、ある日早めに帰ると今度は子供3人だけで家にいて長男に聞きました。赤ちゃんも家において子供に面倒を見させて浮気相手の所に行ったのがわかり子供達と嫁と別れる意味を話し合い幼稚園児の次男と赤ちゃんは理解できなかったけど長男は賛成してくれたのでその日に子供3人連れて家を出ました。

今度は4人で再出発と思っていましたが、赤ちゃんだけは引き取りたいと何回も連絡が来てある日3人目の赤ちゃんは浮気相手との子供と告げられました。しかし自分の子供として数か月育ててきて、まして家を出てからミルクを飲ませたりおむつを替えたり育児してきて血がつながってるとかいないとかは自分に関係なく自分の子供と思っていました。ですが仕事もあり仕事中は私の母親に見てもらっていたのですが、浮気相手の子供を孫とは思えないし、赤ちゃんを世話するより赤ちゃんを返して上の二人のメンタルのケアをしてあげたいと言われ泣く泣く3人目とは別れました。この頃を思い出すと長男につらい思いをさせたことに長男が20才過ぎた今でも罪悪感を覚えます。

正式に離婚して息子二人と私の3人で再出発です!数か月は以前の学校や幼稚園に通い。春から実家に戻り私も通った地元の小学校に入学と転校しました。

急激な環境の変化についていけないんじゃないかと心配していましたが、日に日に長男の笑顔が戻り次男も元気に学校にいいているのを見て 親の都合で振り回され転校で失敗したらもう2度と長男の笑顔が戻らないんじゃないかと心配していましたが、離婚して環境が変わり張り詰めた気持ちが少しでも和らいだんじゃないかと安堵しました。

シングルパパの苦悩

シングルパパになり仕事と育児の両立では本当に悩みました。私は輸送課に所属していて、輸送課は営業課の派生?営業課の中の輸送課という位置づけになります。営業課の人は若く独身の人がほとんどで、仕事への意識が強く家庭より仕事だろ!て雰囲気だったんですよ。

子供の学校行事や急な体調不良で休まなくてはならない時は「何で学校行事で休まなくちゃならないの?」「親と一緒に住んでるんだから親に頼めないの?」など言われて当たり前の事かもしれませんが、急な体調不良など頼めない時があるから話しているんだけど理解されない。会社なんだから当たり前って思うかもしれません。

例えば夫婦二人居ても親戚がなくなって葬儀に出なくてはならないから休むって話は「嫁さんに出てもらったら?」なんていう人は少ないですよね?ですがそんなことは理解されずさんざん言われ続けました。

学校でも学校行事やPTA行事、野球とサッカーをしていたのでその送り迎えと試合応援など色々あり休める時は私が行きましたけど、かなり私の母親に代わりに行ってもらってました。「それならよかったじゃん」って思うかもしれませんが田舎のせいもあると思いますが子供の事は親がするものって意識が強く、「何でたまにしか出てこないの?他の親は出てきてるよ」とか「話し合いにばーさんが来ても本人居ないと決まらない」など言われるんですね。

先輩でシングルママの人も子供の学校にいましたが同じように悩み。本当に悔しくて「1年間仕事を辞めて貯金切り崩して行事や送り迎えを夫婦二人いる人より出て学校行事をみんなより貢献するようにして黙らせた」っていう人がいました。私も子供との時間も増えるし同じように仕事を辞めて育児に専念しようかと悩みましたが、元嫁が私のカードを使って作ったローンの残債がまだあり育児に専念は諦めました。

会社での立場も年々悪くなりましたが、営業課の人たちも結婚して育児を経験して理解を得られるようになった来ました。しかしちょうど社長交代の準備期間の時期でもあり社長の息子が色々と改革をして認められようとしていている時期で、そしてその社長の息子も独り身でまた同じことの繰り返しになりました。

東日本大震災で人生が変わった

2011年3月11日その日は休日出勤の代休を取らされていて子供達は学校で居ないので当時付き合っていた彼女と仙台の海沿いをデートしていました。地震発生時にはちょうど海から帰る所ですぐに移動したため難を逃れましたが目の前での住宅倒壊などを見て今の耐震性強化の大事さを身をもって経験しました。

ずっと停電が続き食料品やガソリンを買うのにも大渋滞の中子供達は不安になりながらも電気のない生活はキャンプみたいと笑っているのを見て気持ちが落ち着いたのを思い出しました。確か1週間くらいたってから会社に出てきてほしと連絡があり余震のたびにビクッとして不安がる子供を残していくのは不安がありましたが私の両親もいる事もあり両親に昼間は預けて仕事に行きました。会社の片づけから始まり次の日位からは津波で流された車の移動をしていました。いくら警察や自衛隊が捜査した後とはいえ、車の影や車の下に入り込んだ人達を見つけるたびにつらい気持ちになります。そして海の近くで作業していることもあり大きな余震のたびにまた津波が来るんじゃないかと不安になりながら作業していました。車の移動が落ち着いてくるともっと津波で苦しんでいる人の為になることをしたいという気持ちが大きくなってきました。

そんな中社長の息子に転勤を命じられ、家庭を持ち理解を示してくれた人たちは擁護してくれましたが、相手は社長の息子。やっと笑顔が戻って楽しくやっているのに転校して環境を変えたくない思いと震災で苦しんでいる人の為になる仕事がしたいとと10年通った会社を辞めました。

 

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幸せの始り 

FORTH STORY 6人のパパになる

New workplace New life

前の会社でとっても世話になった上司の紹介があり次は産廃処理をしている会社に就職しました。産廃の会社って「臭い」「汚い」「危険」の3Kのイメージがありました(映画で出てくるような階級制度の下層の人がボロボロ服を着て保護具も使わず危険なゴミの山から使えるものを拾ってるイメージ)実際はそんなことはなく、常に綺麗にして危険な事にも安全対策をしっかりしていました。(ただの映画の見過ぎでしたね笑)

そこでは吸引車と呼ばれるトラックの運転手から始まり、このトラックで被災地の排水路の清掃をして排水つまりを解消して悪臭の解消をしたりしました。次には海側ばかりに目を向けられ後回しになっていた、内陸で地震被害で住めなくなった家を解体した木材の受け入れが始まり、会社敷地内で木材の破砕する機械のオペレーターや重機のオペレーターをやってました。

この会社はシングルパパにも理解を示してもらいとても働きやすい会社でした。

6人のパパへの道 序章 これって運命じゃない⁉

会社の上司が社長の娘さんと結婚していて、ある日、奥さんの友達の女性を紹介して貰えることになりました。正直に言うとその女性はシングルマザーで子供は2人。結婚相手を探していて、私にも子供が2人結婚したらいきなり5人養わなければなないのはネックになっていました。でも同じシングル同志、付き合うことはなくても友達としていい関係になればいいなと会ってみることになりました。

実際に会ってみると可愛く性格も素敵で話も合いすごくフィーリングが合ってとても気に入りました。しかしネックになっていることがどうしても気になり普段からSNSのチャットで会話しているシングルママの女性に相談したんです。もう気付いてる人もいるかもしれませんが、相談した女性こそが紹介してもらった女性で普段から話をしているから話も弾んでフィーリングが合うって感じたんです笑 しかもその時まで二人とも相談持ちかけるまで気付かなかったなんて大爆笑

そんなこんなでドラマみたいな展開から普段話していてお互いの性格もわかることからネックは小さくなり子供を交えて合うようになりあっという間に結婚まで進んでいきました。

結婚してママが出来るって話した時の子供の嬉しそうな顔。学校で自分だけママがいなくて寂しかったからめっちゃ嬉しい!って大喜びしてくれた次男をみて我慢させていたんだなって改めて思いました。

ある冬の日に

彼女が子供達と一緒に私の家に来てみんなで遊んで帰ってからリビングに行くと祖母が座り込んでいました。「そんな所で何してんの?」と聞くと「jfv;hv;おh;sc」と呂律が回らなくすぐに救急搬送しましたが半身まひになってしまいました。私の再婚を喜び、ひ孫が増えると楽しみにしていた矢先の事でした。両親は再婚して家に来たら母親が介護すると孫の世話の手伝いが出来ないから施設に入れるか悩んでいる時、彼女が「私も介護の手伝いもするし子供の世話は手伝って貰わなくても大丈夫だから」と言って家で介護をし始めました。

4人のパパ 新たな家族ができました

学校の春休みに合わせて嫁と子供女の子と男の子が家に引越し3月27日入籍し正式に家族になりました。上2人と同じ小学2年と新入生で私の母校に入りました。上の子2人もその時は5年生と6年生で授業参観やPTA行事と1人では回り切れないので結婚しても結局休んで夫婦2人でいくことに笑 前の会社にいたら出来なかった大変だけど幸せな時間です。5月には各学年懇親会で先生を交えて飲み会があるんだけど、5月は毎週懇親会でした。家では笑いが絶えずそんな忙しくも幸せな日々を過ごし1年後の8月には2人の子供の4男が生まれました。

村上建築工業に再復帰しました。

何年か産廃処理会社で東日本大震災の復興の手伝いをしていましたが。がれき撤去など災害復旧的なものが落ち着き始め そんな時、被災した人たちが元の生活に戻れるようにするには自分はこれからどうしていけばいいのか考えていました。、復旧から復興に向かっていて仮設住宅から家を建て始める人が増え始めていました。建設会社も建築会社も海沿いの被災地で復興作業に向かい内陸で家を直したい人などが後回しにされて困っていることを聞き建築関係に戻ることで海沿いの被災した人だけじゃなく内陸の被災した被災した人も未来に向けてのお手伝いが出来るんじゃないかと考えていました。

そんな時 弟が村上建築工業を離れたと聞き元々建築関係に戻ろうかと考えていたので村上建築工業に戻ることも考え始めました。

父親の健康診断で癌が見つかり戻ることを決心。(この癌は良性でした。)村上建築工業に戻りました。

全体として会社としては新築を建てた方が利益があるので、新築工事が沢山ある沿岸に行って家は壊れたけど建て替えるほどでもない工事は沿岸に人手が行っているのでてがまわらず後回しになっている状態で、うちの会社は沿岸にはあまり行かず内陸の新築やリフォームや耐震工事などをメインにやっていました。

日の元にはご注意を

4男がやっとハイハイし始めた頃の朝、。その時家には嫁と4男が居てミルクを飲ませていたそうです。火災報知機にに気付き2階の長男の部屋に行ってみると出火していてパニックになった嫁はさらに奥の私たちの部屋に行き私に連絡して「家が火事だよ!」と言ってきました。当時現場が家から5分くらいの所でそこから家も見えるので現場からは煙も見えず軽いボヤでも起こしたのかと思いながら丁度現場に来た父親と家に向かいました。家に向かう途中で家のあたりからうっすらと煙が見え始め急いで家に向かい玄関を開けると階段の上が火に包まれていました。家についても嫁と4男が外に居ない事に不安を感じて家の中を探すとリビングに子供が一人だけいて火を消そうと2階に行って巻き込まれたんじゃないかと思い階段を上ると奥の私たちの部屋の方はまだ火が行っていないのが見え、しかしその前が火のトンネルになっていてこのままでは入れないと風呂場に行き服を濡らして火のトンネルの中に入り丁度中ごろに差し掛かった時でした。

外から父親が「こっちにいたぞ!」との声が聞こえて急いで外に行ってみると2階のバルコニーの所にいました。もうその時には2階のベランダには行ける状態ではなくそこから飛び降りさせて私がキャッチしました。私に電話した後1階に戻ろうとしたがその時には火が大きくなっていて戻れずバルコニーに出た所で煙と暑さで意識がなくなりかけ、私の声が聞こえて意識を取り戻し起き上がったそうです。救助してから「ごめんなさい。大人は私だけで私が家を守らなくちゃダメなのに守れなかった。ごめんなさい。」と言って意識を失いました。意識は戻らずそのままドクターヘリで盛岡の病院へ嫁と念のため4男が搬送されて、私も軽いですが全身火傷だらけでしたので一関の病院に入院しました。私は1泊で退院しましたがその間もこのまま嫁の意識が戻らないんじゃないかと不安でたまりませんでした。次の日家に帰り子供は異状なく嫁も意識を取り戻したと連絡が入り安心して子供達と泣きました。2週間くらいは会社の2階で生活して嫁と4男が帰ってきて小学校の近くに空き家を貸りて家族全員の生活は借りた家の大きさ的に無理なので両親は別の場所で暮らし、私たち親子7人で暮らし始めました。長男は中学生で自分の不注意で母親と兄弟を失いかけた事、家だけじゃなく家族の思い出のものなども失ったことなど理解していて悩み、暗くなってしまいました。火事後、嫁は火の取り扱いや整理整頓に神経質になっていて片づけについてきつい言い方になってしまって反抗期真っ只中の長男や次男とと衝突したりとギクシャクしていきました。そんな中嫁のお腹に6番目の命を授かり大変な時もありましたが、少しづつ信頼関係が回復していき長男も明るさを取り戻していきました。(今ではお互いに一番信頼してるくらいです。母の日にはプレゼント送ってくるのに父の日には何もなし笑)

1年近くその貸家で暮らした頃、予定日より少し早く5男が誕生しました。6番目の子供が結婚記念日の前日の3月26日←オシイ そして新たな家も完成し両親とともに10人家族での生活が再開されました。新たな家族に新たな住まい プライベートの空間も確保でき環境が変わりギクシャクする前の時よりもより良い関係になれました。